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2019年10月10日 (木)

戦国時代の奈良に登場した謎多き武将の足跡を辿る

戦国時代の奈良はどういった状況だったのか皆さん、ご存知だろうか。
あるいは、奈良といって思い浮かぶ戦国武将はいるだろうか。
 
もちろん、歴史に詳しい方、また武将マニアならご存知だろうし、もしかしたらマンガや映画、あるいは「信長の野望」なんかのゲームなどで目や耳にされた方もいるかもしれない。
となると、もとより奈良に生まれ育った筒井順慶を思い浮かべるだろうか。
 
しかし、どちらにしても戦国時代ネタにおいて奈良はあまり話題にはならない。
むしろ、畿内自体がさほど映画などの題材にはされてこなかったように思う。
御所があり将軍がいる京都が国の中心であり、上洛することが何よりの目的だったはずではあるのだが、エピソードとしてはそりゃ甲斐や越後、美濃に尾張、あるいは加賀や安芸の国の方がスター同士の派手な戦いが繰り広げられていて扱いやすいだろう。
 
 
しかし、奈良がこれまた実に興味深いのだ。
 
 
当時の奈良、つまり 大和国 は大名が支配しない特別な国だった。
畿内の他のところは細川氏・畠山氏など将軍家 足利一門の武士たちが守護として支配していたが、大和だけはどうにも入れない。
 
その頃の大和では興福寺がとても強い力を持ち大和を支配していた。
興福寺の僧兵の話などは聞いたことがあるのではないだろうか。
 
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戦国という武力の時代においてまだ宗教的な権威が力を持っていた最後の場所だった、といわれている。
また豪族、地侍も健在であったようだ。
 
 
そんな中、一人の武将が大和国を席巻することとなる。
 
 
この男が実に興味深く、何だか妙に惹かれるところがあるのだ。
 
 
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松永久秀
 
こんな悪の権化のような姿で描かれ、しかも実際に悪名も高い。
 
 
将軍・足利義輝を殺害。
信長への二度の謀反。
東大寺を焼討ちし大仏様もろとも大仏殿を焼失させる。
 
 
まぁ、奈良の人間にとっては許せないエピソードもバッチリある。
 
 
しかし、どうやら語り継がれてきたその悪名とは大きく異なる話も数多聞こえてくる。
史実を紐解いていくと、高い教養のある優れた文化人で、天才的な優れた築城家で、信長なみの先見性も持つ才人であるところが見えてくる。
 
所詮、歴史などというものは勝者が声高に言い伝えたものがまことしやかに語り継がれていくものだ。
しかし、時折史実らしきものがあちらこちらから見つかり、これまで語られていたものが真実ではないという可能性が次第に顕在化していくところがこれまた興奮を生むのである。
 
 
そんな、松永久秀について今回はちょっと語ってみたいと思う。
 
 
そもそも、出自も経歴も謎とされているのがこれまた魅力的なところだ。
 
1510年生まれとされていることもあるが、生い立ちについては不明な点が多く諸説ある。
出身地も明確ではないが、近年の研究では奈良のちょっと上、大阪とも隣接する京都府八幡市の出身と考えられているようだ。
 
主君は畿内から瀬戸内までを支配していた細川晴元の被官・三好長慶
彼の腹心として台頭し、細川晴元に反旗を翻した主君に従い、将軍・足利義輝を京から追放
 
 
更に、1559年5月に三好長慶の命により大和へ兵を進め、ここから奈良と松永久秀の深い関わりの歴史が始まる。
 
興福寺の配下として大きな力を持っていた筒井順慶がたちはだかるが、久秀は二度の戦いで破り大和を我がものに。
ちなみに筒井氏は興福寺一乗院に属する有力宗徒が武士化した家系で、大和最大の武士団となり筒井城を拠点に戦国大名化した一族。
その後も筒井順慶は久秀への攻撃を繰り返し宿命のライバルとなる。
大和国を制圧した松永久秀は、まず信貴山城を居城としたがこの城を今日にみられるような規模の城郭にしたのは久秀。
 
久秀は三好長慶から大和の管理を任され、一国の大名のような立場となっていく。
 
 
そして大和の国に新たに築城したのが 「多聞城」。
 
これが今回一番話題にしたかったもので、以前にも何度か 「近いうちにここに書きたい」 と記してきた案件だ。
 
 
ところで
 
 
 
日本で初めて天守閣を持つ城はこの奈良に建てられた、という事実をご存知だろうか。
 
 
 
それがこの多聞城なのである。
正確にいうとまだ天守閣という概念はない時代だが、それまでの城にはなかった四階建ての櫓があり、それが後々の天守に相当する。
さらに、初めて石垣を多用した城で、漆喰の白壁、屋根は瓦葺き、とあらゆる面で以降の城造りのモデルタイプとなる。
 
(やぐら) を構造で分類すると、平櫓・二重櫓・三重櫓・多聞櫓 などに分類されるそうだが、多聞櫓は横長い長屋状の櫓で、大阪城、広島城、江戸城、彦根城、金沢城、熊本城など名だたる名城に見られる。
その名称の由来はもちろんこの多聞城にある。
 
 
金色の柱が立ち並び、襖絵が張り巡らされ、豪華絢爛な障壁画で飾った御殿群が並ぶ。
いくつもの茶室があり、頻繁に茶会が催されていた。
かの茶聖とも称せられる千利休も宗易と名乗っていた時代に招かれている。
織田信長に仕えたり、豊臣秀吉の側近として重用されるより前の話である。
まさにそこは最先端の文化サロンであったようだ。
 
 
多聞城を訪れたポルトガル人・アルメイダが書き記したものによると 
 
「これだけの優れた建造物は世界にもない
 この中を歩いているとまるで天国に来たようだ」
 
と評されている。
 
 
そんな多聞城はもう残されていないが、その遺構を辿ってみたいと思う。
 
実はこのコラムでも何度か登場はさせているのだが…

 
近鉄奈良駅の北側に位置する、いわゆる 「きたまち」エリア。
 
 
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奈良女子大学を越えて、東大寺転害門に向かうあたりにある鹿角工芸 ハタリ源角堂さんの手前の角を曲がり少し北に上がる。
 
 
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何度か紹介しているが、この佐保川に架かる若草橋は大好きなスポットのひとつだ。
その先の勾配を登っていくと辿り着くのが…
 
 
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若草中学校
 
 
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この学校が建っている丘陵地がかつての多聞城だった。
そもそも戦国時代に解体された城ではあるが、昭和22年にこの若草中が建てられ、その遺構もほとんど失われた。
 
 
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振り向くと、興福寺の五重塔のてっぺんが同じ目線にある。
 
 
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東を向くと、同様に東大寺の大仏殿。
 
ここはまだ山城の麓だ。
つまり、多聞城は当時この大和国で絶大なる力を誇っていた興福寺・東大寺を見下ろせる場所に建っていたということだ。
 
 
そして誰も見たことがないような豪華で壮大な建造物。
 
建築という、目による支配を必要としたわけだ。
そう、東大寺の大仏殿や興福寺の僧院・塔に匹敵するような。
外から来た世俗的な支配者が元の宗教的な権威より上だということを誇示しなければならなかったのだ。
 
しかし、久秀は傍若無人に力でねじ伏せたのではないようなところがあり、そこがとてもイメージが変わる点だ。
彼にとって文化的な権威を世間に印象付ける必要もあったようで、茶会に興福寺の僧侶も招いているそうだ。
 
信貴山城は軍事目的、それに対してこちらの多聞城は政治目的で利用されていたようだ。
 
 
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辺りはもう木々に覆われた山に戻ってしまっている。
 
 
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若草中のすぐ隣の通りは谷筋にあり、かつてここが堀であったようだ。
 
 
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その道沿いを見てみると、たしかにかつての城の遺構らしき姿が今も残っている。
 
 
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麓を流れる佐保川も当時は堀のような役割を果たしていたのだろうか。
 
 
とにかく、松永久秀は優れた築城家であることは間違いなく、残された肖像画のイメージとはかけ離れた教養人・文化人であったようだ。
 
 
1564年、主君であった三好長慶、没。
将軍・足利義輝が実権を取り戻すべく動き出す。
が、義輝は殺害される。
その首謀者が久秀とされている。
 
しかし、将軍を暗殺をしてまで権力を守ろうとした三好家の中で内紛が勃発。
1567年、久秀と対立する三好家の武将たちが大和に侵攻。
興福寺・東大寺に陣を構え対峙
半年後、久秀は東大寺に陣を敷いた敵勢・三好三人衆に夜討ちをかけ、ついに打ち破る。
このときに大仏殿に火が移り焼失。
 
しかし、日本に滞在していたかの有名な宣教師 ルイス・フロイス の 「日本史」 には、敵方の三好三人衆側のキリシタンが放火したと記されているらしい。
 
また、その三好三人衆との争いの間、日本で初めてクリスマスを理由にクリスマス休戦を実施した武将だ、なんていう話もある。
 
 
その後の久秀は孤立するかと思いきや、すでに足利義昭を奉じて上洛する前の織田信長と手を結んでいた。
そして、両者に大和の支配を認めてもらう。
 
 
しかし、信長上洛の三年後、久秀の大和支配を脅かす展開が起こる。
 
 
久秀の宿敵、筒井順慶は将軍足利義昭と姻戚関係に。
さらに信長の家臣にもなる。
筒井氏は元々、興福寺の有力な宗徒。
興福寺の権力を意識したものだろうということだ。
しかも、義昭は元々将軍になる前は興福寺の一乗院門跡。
興福寺の力を十分にわかっている。
 
怒った久秀は筒井順慶を攻めるのだが、それはつまり信長への反逆ということになる。
 
しかしちょうど、甲斐の武田信玄が信長打倒に動き、三方ヶ原で織田・徳川連合軍に大勝利。
更に、将軍義昭も信長に反旗を翻す。
 
まさに、戦国時代が盛り上がりに盛り上がっているところだ。
 
 
ただその直後に信玄死亡…
 
信長は義昭を追放。
そして、久秀に対しても多聞城を包囲。
 
天正元年 (1573年) 多聞山城を信長に差し出し降伏。
久秀の14年の大和支配は終わった。
翌天正2年、再び信長の支配下に。
 
天正4年には信長により多聞城の取り壊しが命じられ、絢爛豪華な内装など建物の多くは安土桃山城や二条城に運ばれて再利用されたらしい。
ちなみに久秀がこの大和国で最初に居城とした信貴山城の城郭ものちに安土桃山城の天守のモデルとなったようで、信長のエピソードに欠かせない有名なあの豪華絢爛な城はいわば松永久秀の才によるものと言えるのかもしれない。
 
 
そしてさらに翌年、天正5年には信長の命令に背き本願寺攻めから勝手に離脱。
二度目の謀反である。
その後、信貴山城に立て籠もり再び信長と対決姿勢を見せるが大軍勢に完全に包囲される。
 
このとき信長は久秀が所有する名器・古天明平蜘蛛の茶釜を差し出せば命は助けると促したが、久秀は
「平蜘蛛の釜と我らの首と二つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」 と返答。
平蜘蛛を叩き割り、天守に火をかけ自害した。
 
一説によると、茶釜に爆薬を仕込んでの自爆。
日本の歴史上、初めて死因に 「爆死」 と書かれた人物とされている。
 
 
松永久秀を悪名高いものにしているのは、まず興福寺多聞院の僧が書いた 「多聞院日記」。
この 「多聞院日記」 があまり好意的な書き方をしていないところは大きいだろう、とのことだ。
 
また、織田信長が徳川家康に紹介した際の言葉とされているものの影響も多いだろう。
 
 
「この老人はまったく油断ができない。。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。常人では一つとして成せないことを三つも成した男よ。」
 
 
この発言自体はある意味、信長が久秀を認めた上で評したものだ。
しかし、前述の通り歴史などというものは所詮は勝者によって作り替えられていくものだ。
 
松永久秀は教養人であることは間違いはなく、実は立ち居振る舞いも優雅で、領国では善政を敷いて領民に慕われていた名君だったという話もある。
 
 
そういった相反する二つの人物像で語られる、いまだ謎の多き男なのだ。
 
だから惹かれるのだろう。
 
 
 
とりあえず、奈良のあのあたりを信長も歩いていた、というのはなかなか興奮するエピソードである。
まぁ、どう考えても彼の方がはるかに非道な男なんだけどね。
 

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10月25日(金) 東京新高円寺 STAX FRED
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『音楽会は雲の上(仮)』東京編

10月26日(土) 浜松 Shot Bar 201
『Persimmon&Bellな201』
 
11月3日(日) 大阪 雲州堂
デ・オッシ × ふれでりっひ書院 ツーマン
『音楽会は雲の上(仮)』大阪編
 
11月9日(土) 梅田 ALWAYS
『秋の弦大乱舞会Vol.3』

11月22日(金) 名古屋 Bar Strega
デ・オッシの定点観測 ~ワンマン~

11月23日(土) 静岡 UHU
デ・オッシ × 丸山研二郎&原口朋丈
おとぎばなしの夜 第十三夜

12月21日(土) 大阪 雲州堂
ワンマン・クリスマスSpecial
『ディンドン・デ・オッシ』
 

詳しくは Website にて
 

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